こんにちは、ゆう(@yuspacet)です。
なぜ生きるのか、考えたことはありますか。
私は小学生のときかな。物心ついたころから、「なぜ生きるのか」「なんのために生きるのか」ということをよく考えていました。
自分なりの答えを得たのは大学に入ってから。だから15年ほどになるかなぁ、ずいぶん長く悩んでいたものです。
考えすぎと言われたこともあるけれど、なぜ生きるのか真剣に考え、自分なりの答えをだせたことは、人生において大きな力になってくれていると感じています。だからこうしたことを考えてきたことはちっとも無駄ではなかったし、おかしいことでもなかったなって思います。
今日は、私と同じように考えている人と、なにか共有できるものがあればと思い、なぜ生きるのか私が悩んできて、そして自分なりの答えを得たときのお話をしたいと思います。
人はなぜ生きるのか?
私は小さい頃から「なぜ生きるんだろう」「なんのために生きるんだろう」とよく考えていました。
もともと好奇心が強かったのもあるけれど、自分ごとの問題として考えていたのは、生きていくのが怖かったからだと思います。
私の父は毎日忙しそうにお仕事に行き、「つかれた、つかれた」とよく言っていました。そんな姿を見て、仕事というもの、働くということがとてもおそろしく感じたし、大人になれば働かなければならないから、生きるのはつらいことと決まっているように思えたんです。
「つらいことが待ってるのに、なんで生まれてきたんだろう?」
「なんのために生きるんだろう?」
「どうしたら幸せに生きれるんだろう」
それが小さなころの私にとって、いちばんの問題で悩みでした。
誰にもわかってもらえない?
「なぜ」と思うようなものがあったとき、多くのことは答えを得ることができました。
空が青から赤に変わるのも、トカゲのしっぽがもとどおりに生えてくるのも、本や周りの人のお話を聞けば、なるほどなって思うことが見つかりました。
でも、なぜ生きるのかっていう話だけは、納得できる答えがぜんぜん見つからなかったんです。
一緒に考えられるような人もいなくって、父や母に聞いても「考えすぎだよ」「楽しめばいいんだよ」みたいな話ばかり。
「みんななにも考えないで楽しそうに生きてるんだ」
「なんでそんなんでいられるんだろう」
世界中で私だけが悩んでいるように思えて、ひとりぼっちみたいに感じてました。
仲間ができた
大学になると少しずつ変化がやってきます。
まず、仲間ができたんです。
それは一番身近な妹でした。妹が哲学や文学に関心を持つようになり、意味ありげな、自分とはなにかを考えさせられるような小説を、私にも教えてくれたのです。
カフカの「変身」や安部公房の「闖入者(ちんにゅうしゃ)」。
「変身」ではある日突然、主人公が虫になってしまったり、「闖入者」ではある日突然、見知らぬ9人家族に家を占拠されてしまったり。
どちらも自分だと思っていたものが、なくなってしまうようなお話で、人生の不確かさや不安を感じる衝撃的なものでした。
とにかくめちゃくちゃ怖かった…本当に人生ってなんなんだろうと、「ずーん」と気持ちが落ち込みました。
けど、すごくはまったのも事実です。自分だけにしかないと思っていた不安が、外の世界にも、みんなにもあったんだと思って、嬉しかったのかもしれません。
たまたま生まれただけ?!
そしてもうひとつ、変化したできごとがありました。
私は哲学や文学ではなくて理系で、大学では「進化論」の授業をとっていました。それがとてもおもしろくて。進化論は、私の好きな授業トップ3に入る講義でした。
それまで進化というのは、ポケモンの「進化」みたいなイメージで、パワーアップしたり、よくなることだと勝手に思っていたのですが、実は全然ちがっているんです。
進化というのは、生存に有利だったものが、生き残ってきた結果。遺伝子の変異が起こって、ちょっとした違いを持ったさまざまな個体が生まれると、その中でたまたまその時の環境に適したものが生き残って増えていく、という考え方でした。
↓大学で使っていためちゃくちゃ面白い教科書
↓利己的な遺伝子
そして講義が進むと、さらに面白いお話が聞けました。猿など群れで生きる生き物にみられる、餌を分け与えたり他者に親切をする「思いやり行動」も、進化の過程で生まれたものなのではないかという考えです。
他者に親切にすれば、あとから返してもらえて、そうして助け合ってきた遺伝子の方が生きのこってきた。そしてたしかにそうした効果が得られない、群れで暮らしていなかったり、互いを識別してない生物には、思いやり行動はみられない、というような話でした。
動物の観察例も書いてあって、とても面白かったです。知的好奇心刺激されまくり。
でも、しばらくたってふと考えたら、急にむなしくなりました。
「じゃぁ、好きとか誰かのためになにかをしたいとか、そうしたものもただの生存の仕組みなのか…」
自分の心の動きもただ生きるための仕組みと、そう考えたら、本当になんで生きてるんだろう?と思い、むなしい気持ちになりました。
私はその後数ヶ月ずーんと落ち込んでいて、それはこれまでの中でいちばんショックを受けていたときだったと思います。
なぜ生きるのかの答え
さて、そんなときに偶然出会って、考えを変えるきっかけをくれたのが、この本でした。
衝撃的なタイトル。
大学二年生の夏、旅行にいく電車で読む本を探して、古本屋さんでたまたま見つけた本でした。
ここでは、「なぜ人を殺してはいけないのか」「不倫は許されない行為か」といった倫理的主題が10問とりあげられていて、ひとつずつ真剣に考えてられていました。
親や先生に聞いたら「ダメだからダメなんです」「何言ってるの」と言われそうなテーマだけど、なぜそういうことになっているのか、ちゃんと考えていくのです。
その中の第一問に、「人は何のために生きるのか」という主題がありました。まさかこんなところに、こんなダイレクトな話が書いてあるなんて。
私はわくわくしながらページをめくりました。
しかしまず書いてあったのは、いろいろ話があった後に、結局「人生に意味などない」ということでした。
なんだ、やっぱりそうなのか
人生に意味なんてないんだ
しかし、がっかりしたのも束の間。
「でも、だからといって人生に絶望する必要はない」
「生きるのに意味はないが、「なぜ生きるのか」という問いに答えることはできる」
「そもそも「なぜ生きるのか」という問いは、人生が充実しているときには生まれない」
「この問いが生まれるのは人生が充実していないからであって、人生を充実させればいいのだ」
私ははっとしました。
私がなぜ生きるのか考えていたのは、人生が充実していなかったからなのか。
人生に与えられた意味がなくても、なぜ生きるのかと問う気持ちには答えることができて、自分の人生を充実させればよいってこと。
人生を充実させよう。
これまで考えていたことも悩んでいたこともまるで嘘だったように、ぱーっと視界が開けたような感じがしました。
なぜではなく、どう生きるのか?
このときから、私は人生を充実させようと決めて、過ごしてきました。
「充実した人生だな」
「自分の生き方、好きだな」
と思えるにはどうしたらいいんだろう。
いま、そのためになにができるんだろう。
それは、それまでとはまるで変わった生き方でした。
「なぜ生きるのか」ずっと悩んでいましたが、もしかしたら考えているように見えて、ただ嘆いていただけだったのかもしれません。
自分はどう生きたいのだろう。
私はどうしたら人生が充実してると思えるんだろう。
これを軸に、これからもひとつひとつ、生きていけたらと思います。
この話が、もし誰かのなにか参考になれば嬉しいです。
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